原点

年に数回足を運ぶ場所がある。
それは、緑の美しいこの季節だったり、燃える紅葉の季節だったり、道を探しあぐねているときだったり。
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芝川と潤川にはさまれた集落。スーパーも無ければ、もちろんコンビにも無い。
それでも、富士山の雪解けの水は豊富で、家の四方を水田が取り囲んでいるような長閑な場所。
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その集落のはずれの、今では立派な鉄の橋が架かったこの場所には、長さ20メータほどもあるつり橋が架かっていた。
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昭和40年代初め、まだ自家用車を持つ家も少なく、今のように親がクルマで送迎などと言うことも無く、子供たちは、その橋を渡り約4キロの山道を歩いて学校に通っていた。
台風の前後は1メートルもねじれて上下するようなつり橋は、そこを通って学校に通う小中学生には時に、大きな難所だった。登校のときはまだよいが、下校時に大風に遭ってしまうと、そのつり橋を渡る勇気が無い者は、家を目前にしながらまた何キロも戻って、更に遠回りして帰らなければならない。恐怖と戦いながら這いつくばってその橋を渡るか・・・よく途方にくれたものだ。
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しかし、そのつり橋が出来る前は、獣道のような崖を下り、川の流れの狭まったところにかけられた丸木橋を渡っていた。揺れる吊橋を渡るような恐怖は無い代わり、この丸木橋も曲者で、大雨が降るたび流されたし、冬は水しぶきが凍ってツルツルとよく滑った。運悪くバランスを崩して川に落ちると、半べそをかきながら家に帰り着替えてまた振り出しに戻るといった双六のような罠・・・。
無事渡りきると今度は、対岸の崖に作られたつづら折れの道を登っていく。
子供たちは、その道を「へび道」と呼び、そして、その名の通りよく蛇に出くわした。中でも青大将が道に横たわっているときは足がすくんだ。
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今から考えればずいぶんじゃない?
まるで毎日命がけ(?)の登校だった(笑)
でも、そのぶん・・・いや、それ以上に楽しみも多かった。
学校帰りの子供たちに、お水やお茶を飲ませてくれる家でお菓子を用意してくれていたり。
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通学路は四季折々に姿を変え、春は山菜・さくらんぼ・キイチゴ。秋は、栗・アケビ・やまいも。どこで何がとれるか知っていた。 
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夏には、難所の川でさえ格好の遊び場だった。、川原の砂地であり地獄つりや魚捕り。ハヤ・ヤマメ・かーじなどがとれた。(かーじとは、カジカのことで、このあたりではそう呼んでいた。)
ランドセルを放り出して暗くなるまで時間を忘れて遊んでは、よく叱られた(笑)
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夏休みになると、流れの緩やかな淵へ泳ぎにいった。
友達と誘い合わせ、それぞれ家の畑で取れたトマト・キュウリ・スイカそして、ザル・鍋・サラダ油・醤油・マッチなどを持ってでかけた。
トマトやキュウリは分かるけど、ザルや鍋やサラダ油は何をするのかって?
ザルは、石の下に隠れているかーじを取る道具なのです。
川原に落ちている枯れ木を集めてマッチで火をおこし、取れたかーじを油をひいた鍋に入れて蓋をし、その場で調理!火が通ったら、醤油をちょっとたらす。かーじは、ハゼの仲間で身は淡白な白身だけれど、油と醤油を使うことでコクが出て、これがまた格別に美味しかった。。。
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まぁ、夏でも水は本当に冷たかったので数分も入っていれば唇が紫色になってしまうので、大きな石の上で甲羅干ししているか、こうしたことに費やしている時間のほうが多かったかも。。。
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その後、この鉄の橋ができ、車が通れるようになると便利になった代わりに、外部から心無い人たちまでもが入るようになった。子供たちは親が車で送迎するようになり、川に下りる人も無くなり、獣道のような通学路は木々にのまれて見えなくなった。

「富士山を世界遺産にしようって言うのに、ゴミや空き缶が落ちているようじゃなぁ・・・」
老人が一人、黙々と掃除をしていた。
「ありがとうございます。」
なんだか、チャラチャラとデジカメを持ってきたのが恥ずかしくなった。

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Commented by 団塊オヤジ at 2010-05-17 22:34 x
画像を見た瞬間、陽水の少年時代のメロディーが流れてきました。良い所で育ったんですね、でも今だからそう思うのであって当時は大変だったと推測できます。
今の貴女の人柄が垣間見えた気がします。
それにしても、故郷を大切にしている老人、きっと彼に
は日常でであり、当たり前のことでしょうが、なーんもできないおいらにはまぶしく映りました。
Commented by h-kaguya at 2010-05-18 02:38
団塊オヤジ さま。
仰る通りよいことばかりではありませんでした。
特に、忘れ物をしたときなど、それも道半ばくらいで気がついたときや、日の落ちるのが早い冬は、街灯も無い山道ですから、 高学年になって、一人帰りの時間が遅くなると、街灯も無い山道ですから、本当に真っ暗になってしまって怖くて怖くて・・・。
どうしてもっと家が近くにないんだろうとよく思いました。
でも、不思議なものです。
今思い出すのは、楽しかったことばかり。。。

その大切な場所をお掃除していたのは、実は対岸の集落の方でした。ありがたいと思う気持ちと、本当は自分たちがしなければいけないこと・・・と言う思いもあって、ただただ懐かしさにひかれてここに来るだけの自分がちょっと恥ずかしく感じました。


Commented by at 2010-05-20 21:30 x
懐かしい写真ですね、子供のころを思い出します 今はこの下へ降りる道が在るのでしょうか?子供のころより水量が減っているので草が生え川幅が随分減っていますね、崖が今は草木で蔽われ地層が見えないね人が入らなくなった山や川は今やジャングルと化しているのでは・・・・でも懐かしいですありがとう
Commented by h-kaguya at 2010-05-21 00:17
桜さま。

コメントありがとうございます。
この場所がわかるのですね。。。

今では、川で遊ぶ子供たちの姿も見ることがないので、下へ降りる道もなくなっているかもしれません。
川も大雨や台風で流れが変わってしまったり、護岸工事が施され昔のままではありませんが、自分の原点はこの風景の中にあるような気がして、年に何度か足を運びます。

桜の木でね!

桜さんの“桜” は、あの桜なのでしょうか。。。
Commented by at 2010-05-21 08:45 x
はい あの桜1950です。
1年に3回くらい帰るのですがあの場所には、あまり行くことが無いので色んなことを思いだしました。
kaguyaさんに保育園まで送ってもらったりしたことも覚えています
歩くのが遅いので置いていかれたり
アスレチック見たいな通学路大変だったね。
Commented by h-kaguya at 2010-05-22 04:13
桜さま。

小さいころは、歩くのが遅くて置いていかれたりしていたのに
中学に入り、市の陸上の記録を何年も保持するまでになったのは
きっと、このアスレチック見たいな山道のおかげですね。
by h-kaguya | 2010-05-15 04:40 | ☆かぐや徒然 | Comments(6)

富士つけナポリタンのまち


by かぐや