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TMO例会「我が経営を語る」第二弾開催

3月26日 19:30よりコミュニティーfにて、「我が経営を語る」第二弾が開催されました。
第一弾が大好評で、もっとじっくり聴きたいという声も有り今回は3名の方にお願いしました。

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今回はどんなお話が聴けるのかと集まった約30名の会員の皆さんは、初めから聴く気満々
真剣そのものです。。。

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 (有) ふとんの松永   松永 明 さん

TMO例会「我が経営を語る」第二弾開催_b0093221_9341655.jpgふとんの松永さんは、東海道吉原宿「東本通り商店街」にあり、5年前に代替わりし現在3代目。受け継いだ家業に若い視線で光を当てようとしている。
日常生活の中にあって、あまりにも身近過ぎて、その実よく知らないって事は案外多い。布団もその一つ。
松永さんのお話は、そんな布団の歴史から始まりました。

私達が普段当たり前のように使っている布団の歴史は意外に浅く、平安時代にはござやむしろを幾重にも重ねて(畳)寝るという生活ていました。
TMO例会「我が経営を語る」第二弾開催_b0093221_1002537.jpgその後、蒲の穂を詰めた物を使い始めたのが「蒲団」の語源だとも言われています。
当時は蒲団と言えば敷布団を指し、薄い絹綿の入った着物を上に掛けて寝ていました。
しかし、それも貴族達だけで、庶民は藁などを敷いて横になり昼間着ていた着物を掛けて寝ていました。
戦国時代になって、綿花の栽培が始まり木綿わたの入った蒲団や着物「夜着(よぎ・やぎ)・かいまき」が使われるようになり、江戸時代後期に今のような四角い形の布団がやっと登場してきました。しかし、これも一部の上流階級の人達で庶民には到底手の届かないものでした。実際に庶民がわたの布団を使えるようになったのは綿の輸入が盛んになった明治の後半になってからの事。
よく時代劇などを見ていると貧しい父娘が登場し、病気で床に伏していいる父・・・、「すまないねぇ・・・」「おとっつあん・・・」と言ったシーンを見かけますが、松永さん曰く「そんなに貧しいなら、その蒲団を売れ!!」と、言うのも当時の記録によると、なんと敷布団3枚で100両!!
今のお金に換算すると1200万円。一枚当たり400万円くらいだったと考えると、その突っ込みも頷ける気がしました(笑)
TMO例会「我が経営を語る」第二弾開催_b0093221_9344368.jpg初めは、わたを売っていた「たわ屋」が戦後完成品の布団を売るようになって「ふとん屋」と呼ばれるようになりました。
昭和40年代マットレスの登場とともに毎週の仕入れ単位が「トラック一台」といった時代もありましたが、バブルのはじけた後価格破壊の対象となり、更に現在はネット通販が盛んに行われ、ふとん屋が名前を伏せて安売りをする悪循環。
松永さんは生き残りをかけ、「布団に関する知識を深め独自性を持ち「提案できる事」「お客様の要望に応える事」そして、それらを「し続ける事」をモットーに、より良い眠りの為にお客様一人一人に合った「枕」作りに力を入れています。

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 (資) 内藤金物店   内藤 勝則 さん

TMO例会「我が経営を語る」第二弾開催_b0093221_9354061.jpg◆ 修行時代
大学卒業後、同業者のもとで二年間修行。
ユニーの担当に配属され、配属後直ぐから一人で店回り(各店舗・本部回り)を任されたが、新人ではなかなか話しを聞いてもらえなかったり、新店舗開店の商品のディスプレーを、普通なら10人で一日で終わらせる作業を1人で10日かかって陳列するなど孤軍奮闘の毎日。
1000万円売ると一人前と言われたけど、300万円ぐらいだった・・・。
「話しを聞いてもらうために、当時ユニーの閉店時間は午後7時、(自社の閉店は5時)時間外に足を運んでは、あの頃は飲みに行ったり、接待ゴルフなどよく行ったなぁ。。。今はタブーだけど。」と懐かしそうに話す内藤さんを見ながら、そういえば「飲みニュケーション」そんな言葉が流行った時代が有ったことを思い出しました。
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◆ 父親から教えられた事
父親は三男で、本来は跡取りではなかったが事情により家業を継いだけれど、人が良い上に気が弱く接客が苦手だったため、子供達を巻き込んで接客をした。(それが人によっては「家中で接客してくれる」と喜んでくれた。)
そんな父親が教えてくれたのは
①利は元に有る(仕入先を大切に)
②お客様はどんな人でも平等に


お父さんの話をしている時の内藤さんの顔が、優しく誇らしげなのが印象的でした。

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(株) タチバナヤ  小川 和孝 さん
 
 私の履歴書
「経営を語る」と言う程大した物はないから、と前置きをして語り始めた小川さんはTMO例会「我が経営を語る」第二弾開催_b0093221_9364290.jpg
実は埼玉県生まれ。

大学を卒業後 (株)ニューヨーカーに入社(池袋西部担当)紳士服を手がける。
2年勤務したが、結婚を機に奥さんの実家「吉原」の住人となるも、無職。
昭和47年当時の吉原の集客数は今と比べ物にならないくらいすごかったが「タチバナヤは田舎に行け!」と言われていた。

1976/8月  これではもったいないと言うと、先代から「じゃぁ、あんたやってよ」と言われ店を
          継ぐ決心をする。
1978/9月  デッドストックを2年かけて処分、リモデルし店名だけを残してメンズ・ウィメンズ
          展開。しかし、評のため半期でウィメンのみに変更。
1985/5月  (株)ハウス社長に就任。沼津 富士急本館1階に出店。
          沼津商店街の理事・テナントの会計などを受ける。
1991/11月 体調を崩し3ヶ月間の入院生活を経験。
          入会していた青年会議所の卒業式に出られなかった事が残念だった。
1992/12月 バブル後半期に富士に出店。
          シャープ振興会理事を受ける。    
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その後、富士急が集客減のため本館のみの縮小に入り2003年沼津・富士店を撤退。
バブル・バブル崩壊という激動の時代に、果敢に事業展開に挑戦するバイタリティーと時を読む力で今を築いている。老舗の多い吉原では珍しい存在かもしれない。

2003年春、自分の魂の置き所「吉原」に貢献しようと県の「まち創り講座」を受講。

以後吉原進行組合振興組合・TMO理事などに積極的にかかわり、これまでに培った人脈や情報網を「吉原」の為に活かそうととしている。
そして、「最近は家業よりそちらに費やす時間の方が多いかも知れない。」と笑う小川さんは、それを理解し支え続けてくれる奥さんへの感謝の気持ちを忘れてはいない。

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「経営を語るほどのものはないよ」と言いながら持ち時間をオーバーする程、どなたも熱いものを持っていることが伝わってきました。
大型店やコンビニには無い何かが。。。
Commented by 白落天 at 2007-04-09 20:32
これだけまとめ上げるのに時間がかかったわけだ。
待ち焦がれてましたよ。
お見事!!!
小川さんとこの「進行組合」はご愛嬌。
Commented by ぱらぽん at 2007-04-10 00:39
かぐやさま、素晴らしいレポートです!!
藤枝の商店街にも来て欲しいくらいです。
チャンスがあったら、商店街のメンバーにご紹介したいわ、このブログ!!これからもがんばってね!
Commented by h-kaguya at 2007-04-10 02:04
白落天 さま。
お待たせしすぎて少々焦げすぎちゃったかしら?(笑)
お借りしたメモ随分参考にさせ手頂きました、ありがとうございます。
「進行組合」・・・何度も読み返したつもりなのにw。。。(自爆)
Commented by h-kaguya at 2007-04-10 02:12
ぱらぽん様。
本業の方に褒めていただけるなんて光栄です!!
でも、本当にすばらしいのは発表なさった方々で、メンバー同士が
日ごろなにを考えて仕事をしているのか知ることができる機会はなかなかないので、毎回楽しみな企画となっています。
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by h-kaguya | 2007-03-27 08:44 | ★『吉原宿』旅は道連れ | Trackback | Comments(4)

富士つけナポリタンのまち 富士市吉原で、まちづくり応援。


by かぐや